はじめに |
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大学が所在する須磨区は、旧石器時代から人類が生活しており、縄文・弥生・古墳時代の遺跡をはじめ、たくさんの史蹟があちらこちらで見られます。また古代から歌にも詠まれ、源氏物語などの文学作品や芸能作品にも何度か取り上げられました。
その須磨の様子を神戸女子大学図書館所蔵の豊富な資料を使って想像し、フィクションで再現しました。 神戸女子大学図書館の竣工20周年を記念して、20歳の女性が歴史と文学の舞台「須磨」をご紹介します。
何十年、何百年、何千年も前に、この須磨の地をさまざまな身分や境遇の20歳の女性が歩いていたなんて、想像するだけでわくわくしませんか。それぞれの時代を生きた女性の姿、女性の声を感じてくだされば幸いです。
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弥生時代 : 主婦
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戎町遺跡発掘調査概報 / 神戸市教育委員会 [編] ; 第1次. -- 神戸市教育委員会, 1989.
資料ID:21949463 請求記号:210.2/Ko 配置場所:2階資料室 |
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弥生時代の家の多くは竪穴住居でした。近畿地方で、はじめて米づくりが行われたころの水田が、須磨区戎町遺跡で見つかっています。 須磨区戎町遺跡では、鍬の未完成品がみつかり、農具を使っていたことがわかっています。
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戎町遺跡第35・38・50・56次調査松野遺跡第32・33・38次調査埋蔵文化財発掘調査報告書. -- 神戸市教育委員会文化財課, 2005.
資料ID:21949487 請求記号:210.2/Ko 配置場所:2階資料室
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弥生時代中期、古墳時代後期、鎌倉~江戸時代の集落跡や方形周溝墓を確認が確認されています。
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私の名前はミネ。妙法寺川の湿潤地を利用した田んぼで米を作り暮らしています。家はすぐ横の自然堤防に竪穴式住居を建てて住んでいます。この集落は、海岸が見晴らせる日当たりのいいところにあり、先祖代々ずっとここに暮らしているんですよ。私たちは米だけではなく、須磨海岸で取れる魚や、裏山で仕留めたイノシシ、もちろんドングリなどの木の実も食べます。
家族は、夫と子どもが1人ですが、他に赤ん坊のうちに亡くなってしまった子どもが2人います。その子たちの墓はこの集落から少し離れたところに、墓地のまわりに溝をめぐらして(方形周溝墓)埋葬しています。私の父はとても長生きで、今年39歳になったんですよ。
今の悩みは石包丁が古くなったので、新しく作り変えたいことかなぁ。夫は作れないので、この集落の職人さんに作ってもらいます。もちろん物々交換のために、夫にイノシシを余分に仕留めてもらうよう頼んでいます。この集落では石器も木製農具もなんでも揃うので、ほかの集落の人もしょっちゅう物々交換にやってくる、ちょっとしたムラなのです。
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図書館員作画 |
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メイキングと参考文献
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奈良時代 740年ごろ : 須磨の関守の妻
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金葉和歌集 巻第4: 冬哥 / [源俊頼編]
資料ID:21914812 請求記号:911.135/Mi 配置場所:貴重
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『金葉和歌集』は、白河上皇の院宣により編纂された第五勅撰和歌集。選者は源俊頼(としより。1055~1129)。院宣が下されたのは1124年ですが、2度の却下の後、1127年に3度めの上奏。これがようやく白河院に嘉納されるところとなり、ここに『金葉和歌集』が最終的に成立しました。
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わたしは、関守の妻、名は耶多部美祢売(やたべのみねめ)と申します。
もともとこの地域の豪族で、わりと裕福な暮らしをしていたのですが、奈良の都からやってきた国司が、須磨の関をつかさどる役人、関守として夫を任命したのでございます。
摂津の関は畿内と畿外を区切る地として、また西国とを結ぶ要衝としてとても重要視されています。毎日の仕事は、他国へ逃亡する者を防ぐために、通行する者の過所(かしよ=通行証)を点検することです。それだけ庶民に対する租・庸・調の負担が重く、戸籍に登録された地から逃げ出す者が多いのです。
夫が関守をしている間、わたしは耕作をしております。といっても実際に畑を耕しているわけではありません。作業人を雇い入れているのです。実は本籍地を離れて他所へ流浪している者を使っているのですよ。彼らも食べていかなければなりませんからね。
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図書館員作画 |
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メイキングと参考文献
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平安時代 850年ごろ : 松風村雨姉妹
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行平磯馴松 : 正本 / 文耕堂〔ほか〕作.
資料ID:21090882 請求記号:912.4/12 配置場所:貴重 |
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能の中でも名曲の一つに数えられている世阿弥の名作です。旅の僧が須磨に訪れたところ、いにしえの松風・村雨姉妹の話を聞き、供養した後、姉妹の幽霊に出会います。
文耕堂は大坂竹本座の浄瑠璃作者で、近松門左衛門に師事したといわれています。軍記物を中心に二十四、五本の作品を書きました。
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『松風村雨』 謡曲百番 : 元和卯月本 / 伊藤正義著. -- 1. -- 国書刊行会, 1974. -- (版本文庫 ; 5の1-3).
資料ID:21422126 請求記号:768.4/it/1 配置場所:T4 |
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謡曲『松風』にちなむ在原行平と松風村雨姉妹の恋愛を題材にした浄瑠璃本です。
元和卯月本とは、観世流の節付がなされた最初の整版印刷の謡本で、一番綴百冊揃。詞章は観世大夫黒雪直筆の近衛流書体、節付は石田少左衛門友雪によります。
表紙は、紺地の表紙に金泥で、曲に関連の深い情景が描かれています。
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わたしは村雨と申す海人(あま)でございます。
以前は、姉の松風とともに、"もしお"・"こふじ"という名前で、須磨の浦で魚や海草を採ったり、塩を作ったりして暮らしておりました。
ところがちょうど文徳天皇の御世のこと、在原中納言行平(ありわらの ちゅうなごん ゆきひら)様が帝より蟄居を命じられ、この地に参られたのでございます。
村長が、夜汐を運ぶ海人少女(あまおとめ)としてわたくしども姉妹を名指し、行平様が松風、村雨と名づけてお召しくださいました。
海人をしていた頃のぼろを脱ぎ捨て、目の覚めるような美しい着物をまとい、分不相応の雅びやかな暮らしが三年ほど続いた頃、いよいよ行平様許されて都へお戻りになることになりました。行平様はこの間の思い出のよすがとして、烏帽子(えぼし)と狩衣(かりぎぬ)をそっと松の枝にかけて残してくださいました。
今はただ、形見の品を見るたびにいよいよ悲しみが増すばかりでございます。
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攝津名所圖會 / 秋里籬島著. -- 臨川書店, 1996.6.
ID30280908
請求記号291/52/10-2 |
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メイキングと参考文献
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平安時代 1184年3月20日 : 小宰相局
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平家物語絵巻 / 小松茂美編. -- 巻第9. -- 中央公論社, 1991.
資料ID:30118232 請求記号:721.2/4/9 配置場所:3階M3 |
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国民的古典「平家物語」を完璧に描く唯一の長篇絵巻を総カラーで完全収載。物語本文を絵とともに掲載。巻第9には有名な「鵯越の坂落とし」や「平敦盛と熊谷直実」の場面など、須磨にゆかりの場面が収められています。
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私は越前三位平通盛(えちぜんのさんみ たいらのみちもり)の妻、小宰相(こざいしょう)でございます。
私に一目惚れをしたという通盛殿から、3年間にわたり何通もの歌や恋文を頂き、十六歳のときに上西門院様のご仲介で結ばれました。
やがて世の中は、源氏と平氏に分かれて天下争う大動乱となりました。殿もあちこちをご転戦なさいました。
さていよいよ、都にも木曽義仲の軍が攻め入るということで、私たち平家方もとうとう都落ちを余儀なくされたのでございます。最小限の身の回り品だけを持って船に乗り込み、今はこうして瀬戸内をさまよう海上生活を余儀なくされております。
一方、殿のほうは水島攻め、阿波攻めでも大層ご活躍あそばされました。
ところが昨夜のことでございます。殿がこっそり私を船上から陣屋へ呼び寄せになりました。なにか心細そうなご様子でしたので、こういうことはあまり言うものではないのですが、「身籠りました」と打ち明けたところ、殿は「男の子であったらなあ」と、ことのほかお喜びになりました。
今日は一の谷の方で大きな合戦があったと聞いております。通盛殿は一の谷の麓を護っておられると聞いておりますが、どうかご無事でと、今は船の上から一心にお祈り申し上げるばかりでございます。
(通盛はこの時、源義経の逆落としの奇襲を受け果敢な最期を遂げた。数週間後小宰相は船中でその悲報を聞き、波間に身を投げたのである)
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平家物語絵巻 / 小松茂美編. -- 巻第9. -- 中央公論社, 1991.
ID30118232
請求記号721.2/4/9 |
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メイキングと参考文献
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室町時代 1351年2月17日(寿永3年/治承8年2月7日) : 松岡城主の娘
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赤松円心緑陣幕 / 文耕堂 ; 三好松洛作.
資料ID:21090103 請求記号:912.4/12 配置場所:貴重 |
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人形浄瑠璃の本。元文元年2月、竹本座の赤松園心緑陣幕の四段目本間山城入道の人形を三代前吉田文三郎が遣い、初めて人形に眉の動く仕掛けを案出しました。
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私は摂津国の守護、赤松信濃守範資(あかまつ しなののかみ のりすけ)の娘峯子と申します。
数年前より、将軍足利尊氏様の執事、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟派と、将軍の弟、直義様派に分かれ、大きくいがみ合っておりましたが、ついに観応元年(1350)10月、直義様の義理の息子直冬様が挙兵し、大きな争いに発展しました。
観応2年(1351)2月17日には、湊川城に陣を構えられた尊氏様の軍が直義様の軍と打出の浜で衝突し、破れた尊氏様の軍勢が父を頼ってこの松岡城に逃げて来たのです。しかし、祖父赤松円心が別宅として建てたこの城は、一辺がたった4丁(400メートル)の小さな山城で、全ての兵を匿うことができず、多くの者が他所へ逃げ落ちなければなりませんでした。
将軍は、もうこれまでと自害をご覚悟され、師直様・師泰様をはじめ主だった家臣を客間に集めていましたが、父が今生の別れにと、母や私に命じて酒盃を用意させました。
みな袖をぬらしながら、次々と盃を回していたときのことです。東の城門から、昨夕逃げたと思われていた命鶴丸が「和睦が成立いたしました」と叫びながら現れました。彼が申すには、畠山殿のところに参られて、直義様に和睦をご提案したところ、直義様もそれを望んでおられたのこと。その夜のご自害は中止となり、私もほっとしたのでございます。
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太平記絵巻 / 宮次男,佐藤和彦編. -- 河出書房新社, 1992.
ID30153387
請求記号721.2/5 |
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メイキングと参考文献
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室町時代 1360年3月27日 : 下僧の妻
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須磨寺「當山歴代」 : 摂津国八部郡福祥寺古記録 / 三浦真厳編纂 ; [精装]. -- 須磨寺塔頭正覚院, 1989.
資料ID:30021587 請求記号:188.55/1 配置場所:2階資料室
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須磨寺の古記録『当山歴代』は、中世以来、同寺において書き継がれてきた寺の年代記です。その記事に多少の欠落や精粗の差はありますが、平安末期の嘉応二年(1170)から近世の宝暦二年(1752)まで、五百八十年余りの同寺の造営と興行を中心とした寺史の歩みを、全体として正確で実務的な筆致で簡明に書き綴っており、中近世を一貫した寺院史および周辺地域史の編年史料として、高く評価すべき内容を有しています。
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わたしは、須磨寺の門前に住む、ミネと申す者です。夫は下僧として須磨寺で下働きをしております。 この あたりには何軒か茅葺きの家が連なり、ここに住む者はみな、たいてい須磨寺の雑事に従事したり、寺領を耕作したりして暮らしております。
普段でも参詣者が多い寺ですが、大師参りの日には、特に人がたくさん集まり、境内では市が立ちます。猿曳き(猿回し)がやってくるときはとくに楽しみです。
ところが、延文五年庚子(1360年)三月二十七日のことでした。突然、寺に火の手が上がり、風の勢いを借りて、金堂をはじめ、釈迦堂、鐘楼、鎮守が瞬く間に焼け落ちてしまいました。僧侶たちはなんとかご本尊だけでもお守りしようと、観音像と毘沙門像三十三体のうち半分ほどを持ち出すことができましたが、一丈六尺(約4.8メートル)の釈迦像や、三十三体あった不動像のほとんどが燃えてなくなってしまいました。
おおかたの経も燃えてしまったことから、寺を後にする僧も次々と現れ、仏前にともす灯りもなく、文字通り火の消えたような寂しさになってしまいました。
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絵巻物による日本常民生活絵引 / 澁澤敬三, 神奈川大学日本常民文化研究所編 ; 第1巻. -- 平凡社, 1984.
ID30487246 請求記号382.1/Sh/1B |
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メイキングと参考文献
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江戸 元禄元年(1688)4月21日 : 敦盛塚前の茶店の看板娘
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須磨一の谷蕎麦売文句. -- 升屋九兵衛, [出版年不明].
資料ID:30449589 請求記号:384.3/6 配置場所:2階資料室 |
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敦盛塚の前に江戸時代より軒を連ねたそば屋があり、そこで売られていたそばを敦盛そばと呼んでいました。
この資料は、この店の蕎麦売り口上です。「蕎麦は敦盛、あんばい(塩加減)は義経」と、語呂合わせが景気よく続きます。
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わたし、おみね。敦盛塚のまん前にある蕎麦茶店で働いてます。
敦盛塚って、一丈二尺(395センチ)もある巨大な五輪の塔で、そりゃもう、すごい観光客がやってくるの。なんせ日本で2番目の高さなんだって!
今ね、塔の周りに石を積むのが流行ってるの。結構、石垣のようになってるでしょう。敦盛さんへの供養なんですって。
うちは、旅人がひっきりなしに立ち寄ってくれるから、大繁盛の大忙し。お茶は一杯5文。団子も1串5文。蕎麦もメニューにあるのよ。特大大盛りの盛り蕎麦1杯16文。
あ、昨日(元禄元年(1688)4月20日)うちの弟が、江戸の俳諧の先生で、松尾芭蕉とかいうおじさんを連れてきたのよ。日本国中旅して俳諧を作ってんだって。
そのおじさんたら、突然弟に話しかけて、「鉄拐山に登りたいから案内しろ」って言たんだって。それで弟が「いやだ」って断ったら、「茶店でおごってやるから」って無理やり道案内させたらしいの。
二人で鉄拐山に登って、はぁはぁ言いながら下りてきたわよ。
山で詠んだ句だと言って、お礼に置いてったの、この短冊。
なんて書いてあるかって。ちゃんと読めるわよ。茶店で働くには読み書きができないと不自由だろうって、庄屋さんとこで習ったんだよ。
須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ
敦盛さんの青葉の笛のことね。拝観料10疋は高い、って俳諧のおじさんえらく怒ってたわ。
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近世文學資料類従古板地誌編 / 近世文学書誌研究会編. -- 勉誠社, 1977.
ID20795290
請求記号918.5/2 |
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メイキングと参考文献
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江戸時代 中・後期 :磯馴味噌屋の娘
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攝州須磨浦一ノ谷真景細見 / 亀井屋孫兵衛刊.
資料ID:30566330 請求記号:290.38/Se 配置場所:貴重 |
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摂州須磨乃浦の古地図で、各地名所、旧跡、寺社を紹介しています。松風村雨、須磨寺、敦盛首塚、一の谷、現光寺などがみられます。
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私は嶋田美音子といいます。
私の家では味噌を作って売っています。
須磨名物「磯馴味噌」といって、大豆も少しだけ入れた麦味噌で、風味がよく、とてもおいしいんですよ。
ところが、うちが本家本元なのに、最近本家磯馴味噌を名乗るところがたくさん出てきて困っていたんです。
そこで、私が父に、店の広告を出したらどうかって提案してみたんです。
須磨に来る観光客に、うちの味噌を宣伝するには、観光客がよく見るものに店の名前を載せたらどうかしらって。
それで、思いついたのが、“地図”です。観光客なら誰でも見るでしょ。
父が、一の谷で地図を刊行してる「産亀堂」さんに、この話をしてみたら、うまく商談がまとまったみたいで、
今日、その地図が出来上がったのです。これがうちの広告入り観光地図ですよ。
どうですか。いいアイデアを思いついたでしょ。
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絵でよむ江戸のくらし風俗大事典 / 棚橋正博, 村田裕司編著. -- 柏書房, 2004.
ID30602762
請求記号382.136/Ta |
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メイキングと参考文献
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明治28年(1895)8月1日 : 須磨保養院の仲居
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むかしの神戸 : 絵はがきに見る明治・大正・昭和初期 / 和田克巳編著. -- 神戸新聞総合出版センター.
資料ID:30444201 請求記号:216.4/125 配置場所:3階N18 |
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明治・大正・昭和初期の懐かしい神戸の様子を絵葉書で紹介しています。当時、絵葉書は観光用、企業の創立記念や工場の完成披露時などに制作されたものが、多かったようです。
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私は須磨保養院で仲居として働く三谷ミネと申すものです。
ここは健康な人でもご病気の人でも、保養のために泊まることができる旅館のです。ここでおいしい料理を堪能して、きれいな空気を吸って、のんびり過ごすといいんですよ。前の須磨の海水に浸かって療養する人もいらっしゃいます。診察は隣に建っている日本初のサナトリウム須磨浦療病院でしてもらえます。
7月23日から泊まってらっしゃる正岡升(まさおかのぼる)さんは、県立神戸病院からここへ移って来られた当初は、顔色も悪く、体調もすぐれないご様子で、とても心配いたしました。
でもみるみるうちによくなられ、毎日ヘルメットのような帽子を被って須磨海岸を散歩されたり、木陰で本を読んで過ごされたり、須磨寺や塩屋の方へも足を延ばされることもあるようです。海岸ではいつも紙とペンを持って俳句を作っていらっしゃいます。
先日は、わたしにも俳句というものを教えてくださいました!
でもなんの句も浮かんでこないどころか、字すらおぼつかなかいわたしをご覧になって、正岡先生ったら「夕涼み仲居に文字を習はする」という句を詠まれました。わたしは学校へ行っていないので、字が書けないんです。
わたしは多井畑村出身なのですが、多井畑小学校へ行く子どもはその頃、村の子ども48人のうち、男の子が10人女の子が2人くらいでした。学校へ行くくらいだったら家の手伝いをしろ、女に学をつけてもろくなことがないと言われたものです。13年たった今でも同じようなものですよ。
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むかしの神戸 : 絵はがきに見る明治・大正・昭和初期 / 和田克巳編著. -- 神戸新聞総合出版センター.
ID30444201
請求記号216.4/125 |
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メイキングと参考文献
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大正7年(1918)8月12日 : 新聞記者
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鼠 : 鈴木商店焼打ち事件 / 城山三郎著. 新装版. -- 文芸春秋, 1988.
資料ID:30735743 請求記号:915.6/Sh 配置場所:2階資料室
総合商社の源流 鈴木商店 / 桂芳男著. -- 日本経済新聞社, 1977. -- (日経新書 ; 282).
資料ID:30749481 請求記号:335.48/Ka 配置場所:2階資料室 |
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一介の商店から三井・三菱と並ぶ大商社に成長した鈴木商店は、米の買占めを噂され、米騒動の群集の焼打ちにあいました。第一次大戦による好況から戦後の不況へ、そして昭和初頭の恐慌に至る激動の時代に諸悪の根源と指弾された同店の盛衰とその大番頭・金子直吉の劇的な生涯と経営戦略を描きます。
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わたしは若木美禰子。神戸新聞社に勤めています。
女学校を卒業後、新聞の求人広告で事務員を募集していたので応募したところ、採用されしばらく働いていましたが、社内で書いた文に目を留めて頂き、去年社会部に配属されてただ今2年めです。
1918年の1月に1石15円だった米価が、6月には20円を超え、翌月7月には40円を超えたということで、一般市民の苦しみの声や家計のやりくりの様子を、女性ならではの視点で取材しようと、袴の裾をひるがえして歩きまわっていました。
ところが、大阪朝日新聞が、神戸にある鈴木商店が米価高騰にかこつけて、米を買い占め、それを投機に回していると連日書き始めたのです。
そこで、わたしも取材を始めましたが、私はが見たところそのような事実はなく、鈴木商店で働く人たちも決してそのようなことをする人たちではありません。というのも、私の弟は鈴木商店で働いており、また須磨一の谷にある私の家は、鈴木商店の大番頭である金子直吉さんの家の隣なのです。金子さんの家はとても質素で、金子さん自身もとても実直な方ですし、奥様も、ご主人が今、外国産米を輸入しようと奔走して毎晩帰りが遅いのだ、とおっしゃっていましたから。
8月12日の朝、約3千500人の群集が殺気立ち、なだれを打って東川崎町1丁目の鈴木商店に殺到しました。群集は店内をメチャメチャに破壊し、放火した後、隣接の神戸新聞社にも放火しました。
その後朝日新聞は訂正記事を打ちましたが、ペンの力の怖さを思い知った出来事でした。
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キモノの時代 / 村上信彦著. -- : 新装版. -- 理論社, 1974. -- (服装の歴史 / 村上信彦著 ; 2)
ID20285715
請求記号383.1/53B/2 |
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メイキングと参考文献
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昭和13年(1938)7月15日 : 神戸市電トラム・ガール
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さよなら神戸市電 : 写真でつづる54年の生涯 / 神戸市交通局編. -- 神戸市交通局, 1971.
資料ID:30642713 請求記号:686.9/Ko 配置場所:2階資料室 |
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1917年から1971年までの54年間神戸市内を走った「神戸市電」の様子や切符、お祭りなどでの懐かしい風景がよみがえります。
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わたしは神戸市電気局に勤めている衣掛美音子です。
超難関の試験を突破して250人の中から選ばれた市電の女子車掌です。
昭和10年に導入された最新のロマンスカーに乗務して、料金を受け取ったり、停留所のアナウンスをしたりして働いています。ロマンスカーというのは、座席が運転手と同じ方向を向いて並んでいる方式で、天井までの大きな窓をいっぱいに開けて走ると心地よい風が通り、お客様に大変好評なんです。車体はグリーンとクリームのツートンカラーで、私たち女子車掌もトラム・ガールとハイカラに呼ばれているんですよ。
神戸市電は海外からも「東洋一」と称えられています。
夏になると、わたしの乗務路線春日野道-須磨駅間は超満員になります。須磨浦海水浴場は潮流のせいで水が澄み、砂浜も美しく、毎年阪神間からたくさんの海水浴客が訪れるのです。砂浜には脱衣場があり、そこで生姜の効いた飴湯を飲ませてくれるそうです。
ところが、今年はどうしたことでしょう。梅雨がいっこうに明けず、今日7月5日も朝からバケツをひっくり返したような土砂降りでした。
そしてとうとう大きな地鳴りがしたかと思うと、神戸市中の川がどっと氾濫し、みるみるうちに道路が水びたしになっていきます。もう軌道も見えなくなってきました。今からお客さんを安全なところで降ろす予定です。
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さよなら神戸市電 : 写真でつづる54年の生涯 / 神戸市交通局編. -- 神戸市交通局, 1971.
ID30642713
請求記号686.9/Ko
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メイキングと参考文献
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昭和20年(1945)6月5日 : 須磨空襲を受けた市民
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神戸大空襲 : 戦後60年から明日へ / 神戸空襲を記録する会編.--神戸新聞総合出版センター, 2005. -- (のじぎく文庫).
資料ID: 30694064 請求記号:216.4/Ko 配置場所:2階K10 |
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1945年2月、3月、5月、6月と繰り返された激しい空襲の記録と体験記。過去だけではなく、現在の神戸市内の様子も紹介されています。また、戦災と震災を復興という視点から重ね合わせて論じてもいます。
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大正14年生まれの丑年、大手峯子と申します。
尋常高等小学校卒業後、川崎重工の明石工場でタイピストとして働いています。
父は日中戦争ですでに他界し、一番下の弟は岡山県に集団疎開しています。普段は祖母と母と3歳下の妹とで、買出し部隊として出かけたり、近所の空き地を畑にしたりして暮らしています。
3月17日の空襲では、須磨の一帯はひどい被害を受けました。幸い私の家は焼失を免れましたが、月見山町、千守町、武庫離宮までもが焼け落ちてしまいました。
そして昨日(昭和20年6月5日)の早朝、空襲警報が発令し、私たちは急いで防空壕に逃げ込みました。やがて警報が解除され、私は会社へは出勤せず、救護班として救急病院へ向かいました。国鉄須磨駅の方を見ると真っ黒の煙と炎が見えていました。
離宮道に出ると、何人かの人が頭から血を流しながら、坂を登ってきました。聞くと線路の南側は絨毯攻撃にあい、一瞬にして火の海と化しているそうです。
私は近くにいた男の人たちと一緒に、怪我をした人たちを西須磨国民学校(西須磨小学校)の講堂に連れて行きました。そこには続々と怪我をした人、火傷をした人たちが大勢つめかけ、野戦病院のようになりました。私は救護班として無我夢中で応対するのが精一杯でした。
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窮乏生活と学徒出陣. -- 朝日新聞社, 1995. (朝日歴史写真ライブラリー 戦争と庶民 :1940-49)
ID30244719
請求記号210.75/89/2 |
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メイキングと参考文献
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昭和22年(1947)4月5日 : 初めて投票する婦人
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少女の友 : 創刊100周年記念号 : 明治・大正・昭和ベストセレクション / 実業之日本社編.-- 実業之日本社, 2009.
資料ID: 30757950 請求記号:051/Ji 配置場所:2階K10 |
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伝説の少女雑誌!明治41(1908)年の創刊から、昭和30(1955)年の終刊まで、日本の出版史上もっとも長きにわたり刊行された少女雑誌、『少女の友』の傑作記事を、たっぷり載録。
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私は昭和2年生まれの大手千歳です。大手峯子の妹です。
昭和14年に神戸市須磨尋常小学校を卒業して高等小学校に進み、家の手伝いをしていましたが、軍人の遺族は授業料が無料ということで、神戸区(現中央区)中山手通2丁目にある神戸新装女学院に入学しました。
そのころ(昭和18年)はすでに、衣料品は総合切符制になっており、奢侈品も禁止されていたのですが、わたしは小さい頃からおしゃれが大好きだったので、どうしても将来は裁縫で身をたてたいと思ったのです。
わたしは小さい頃からよく、母の愛読していた『婦人画報』や『スタイル』を見て、気に入ったデザインを紙に写したり、自分でデザインを考えたりして遊んでいました。私自身は『少女の友』をとってもらってました。中原淳一の「女学生服装帖」というファッション・ページが大好きで、何度も読み返して、制服のおしゃれの工夫に取り入れたりしていました。
神戸新装女学院では、切符制による限られた材料を生かして満足できる衣服にしたり、古い着物を改造した標準服や二部式の和服を制作し技術を磨きました。また裁縫の技術だけでなく、院長の行吉哉女先生には自立した女性の生き方についても教えていただきました。
戦争が終わって、女性達も弾けたようにおしゃれになりました。髪にパーマをあて、おしゃれなワンピースでお勤めに行く女性が増えました。わたしの仕立て屋としての仕事も順調に増えています。
そして今日、昭和22年4月5日。2月に二十歳になったばかりの私にとって初めての選挙の日がやってきました。いえ、二十歳になった人にとってというより、女性にとって初めての選挙の日です。今までは男性にしか選挙権はありませんでしたが、長年の市川房枝さんらの運動が実り、日本の女性の意見も政治に反映されるようになったのです。
行吉哉女先生がおっしゃった自立した女性になれるよう、今日はどんなに忙しくても棄権せず選挙に行こうと祖母や母・姉らと話し合っています。
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写真にみる日本洋装史 / 遠藤武,石山彰著. -- 文化出版局, 1980.
ID20613792
請求記号383.1/36 |
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メイキングと参考文献
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昭和45年(1970)8月 : 万博にて、女子大生
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日本万国博覧会記念写真集. -- 万国博グラフ社, 1970.
資料ID:21791680 請求記号:606.9/Ni 配置場所:1階C2 |
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人類の進歩と調和をテーマに 1970年、大阪府下茨木市千里ヶ丘で開催された、日本で最初の国際博覧会。10人のカメラマンが休むことなく撮影を続けた延べ100万点に及ぶ美しいカラー写真をもとに、万国博の直接運営にあたった人々の手で編集されるこの写真集です。
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神戸女子大学文学部英文科2回生の桜木岑子(仮名)。
神戸女子大学は昭和41年4月に、家政学部が須磨に開学したんだけど、去年、文学部が新しくできて、わたしはその第一期生。
兄の大学では、大学紛争でほとんど授業がなかったんやって。でも神戸女子大学はそんなこともなく穏やかで、この美しいキャンパスで、楽しい大学生活を送ってます。
後期試験も終わり夏休みに入ったので、今日は友達と大阪万博に来てます。
今日のおしゃれのポイントはミニスカートにVANで買ったTシャツ。『アンアンan・an』を読んでいろいろ工夫してるんだけど、みんなおしゃれやねぇ。
それにしてもここは、すごい人、人、人。あまりにもすごい行列なので、アメリカ館の「月の石」はあきらめて、サンヨー館に入ったんだけど、そこでとてもおもしろいものを見つけました。
人間洗濯機、ワイヤレステレホン、万能テレビ。
万能テレビというのは、家庭にいながら、ビジネスやお買い物が自由自在にできる機械だとか。どういう仕組みになってるんかな…。
それからコードがないワイヤレステレホン。しかもダイヤルを回すかわりにボタンをプッシュすんやって。
お昼は、会場内のレストランがどこも満員やったので、ケンタッキー・フライド・チキンを食べました。日本初登場なんやって。
大きなボックスからひとつずつ手づかみでかぶりつくのも初体験やし、美味しかったよ。アメリカの味という感じ。
万博に来ていると、なんか外国とつながってるって気がしてきて、卒業後は海外との仕事がしたい!って心に誓いました。
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参考文献
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平成7年(1995)1月17日 : 阪神大震災罹災 女子大生
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読売新聞社編. -- 読売新聞社, 1995.
資料ID:21524875 請求記号:453.216/1 配置場所:2階K5
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1995年1月17日午前5時46分、神戸の街は一瞬にして崩壊しました。瓦礫に埋もれ助けを求める人、懸命の救助に走る人、避難所での厳しい生活…。阪神大震災のありのままの姿を収録しています。
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私は神戸女子大学教育学科2回生の落合峰香(仮名)です。
明石の家から山陽電車で須磨のキャンパスまで通っています。
学校では書道部に入り、同じクラスの仲良し友達4人組みで、いつも一緒に授業を受けています。
大学の後期授業も終わりかけた1月17日火曜日の朝、5時46分。
今まで体験したことのないすごい揺れで目が覚めました。縦の激しい揺れが恐くて恐くて、ベットの中で叫びました。
気がつくと、部屋の中が泥棒に入られたみたいにぐちゃぐちゃになっていました。棚の上の物はすべて床に落ち、買ったばかりのCDラジカセは落ちた衝撃で壊れていました。台所では重くて絶対に動かないと思っていた冷蔵庫が倒れ、食器棚の扉が開いて、食器がすべて落ちて粉々になっていました。
幸い家族はみんな無事でしたが、阪神淡路地区が壊滅状態になっていることを知ったのは、お昼になってからでした。PHSで友達に連絡をとろうにも混線して、友達の安否を知ることはできませんでした。
交通機関が止まり、大学にいけなくなったので、復旧までしばらく休講になりました。その間、私は近くの小学校で炊き出しのボランティアをしましたが、何をやっても家や家族を失った人の支えにはならないと、自分の無力さを知りました。
2月になり登校し始めると、見慣れた須磨の商店街や家がなくなっていて、お花が添えてありました。それを見て胸が締め付けられ、歩きながら涙が止まりませんでした。
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参考文献
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平成21年(2009)11月 21日 : 女子大生
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神戸女子大学図書館パンフレット 平成元年出版
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私は平成元年生まれの二十歳、名前は青山みねり(仮名)です。現在、神戸女子大学家政学部の二回生です。
図書館設立20周年おめでとうございます。この建物が、私が生まれた20年前にできたと聞いても、あまりぴんときませんでした。というのは、まだまだきれいで新しく、最新の設備も調っているからです。手に取る本の中には歴史を感じるものもありますが。
私は大学進学を機に実家を離れ神戸に来て、一人暮らしを始めました。毎日ipodで音楽を聴きながら、バスで大学まで通学しています。
あまり両親に負担をかけたくないので、アルバイトでカフェスタッフと家庭教師を掛け持ちして、自分のこづいかい分を稼いでいます。それに卒業旅行で海外に行くために、今から貯金も始めました。携帯代は「家族割」を使って両親に支払ってもらっています。
休日はだいたい、三宮に買い物やカラオケに行きます。最近は、雑誌に載ってる美味しいラーメン屋やパスタのお店に行くのにハマっています。何ヶ月かに1回は、友人とのプチ旅行も計画します。連絡はもっぱらメールを使います。
そろそろ就活について考え始めていますが、できれば食品関係を希望しています。結婚は30歳くらいまでにできればと思っていますが、結婚しても出産しても、ずっと仕事は続けたいです。未曾有(みぞユウ!)の不況による就職難と、婚活の話題に少し不安も感じている今日この頃です。
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参考文献
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