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6.最初の結婚:佐治一成
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知多半島西海岸で勢力を持っていた佐治一成の父信方は、織田信長の妹犬を妻としていた。信方死後、若くして後家となった犬を不憫に思った信長は、犬を実家に戻し、姪である江と一成の縁組により織田・佐治両家の縁戚関係を継続させようとした。このとき(天正二年ごろ)江はまだ乳児だった。
ところが、江の成長を待つ間の天正十年(1582)に本能寺の変が起こり、信長が死去。
お市の方は柴田勝家と再婚し、三人の娘を連れて北の庄城に移ってしまう。
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『信長公記』(しんちょうこうき)
新加通記類 ;第2. 臨川書店, 1984 -- (改定史籍集覧 / 近藤瓶城編 ; 第19册).
資料ID:21720659 請求記号:210.088/Ka/19 配置場所:1階A10
信長の家臣であった太田牛一が、著した織田信長の一代記。十五巻十五冊。編述の過程で数種の本に分かれ、『信長記』『信長公記』『安土記』『安土日記』ほか数種の名称がある。
「信長公本能寺にて御腹めされ候事」
信長、初めには御弓を取合二三つ遊ばし候へば何れも時刻到来候て御弓の絃切れ其後御鎗にて御戦なされ御肘に鎗疵被り引退是迄御そばに女共付そひて居申候を女はくるしからず急ぎ罷出よと仰せられ追出させられ既に御殿に火を懸け焼来たり候。御姿を御見せあるまじきと思しめされ候か、殿中奥深入給ひ内よりも御納戸の口を引立て無情に御腹を召され。
信長は初め、弓で二、三矢放ったが、やがて弓の弦も切れ、槍で応戦したが、肘に怪我をした。部屋に戻ると、それまでそばに付き添っていた妻と女中たちに「女は逃げてよい。急いでここから出よ」と追い出した。
すでに本能寺の宿には火がつけられ、炎が迫っていた。
姿は見せられないと思ったのか、奥の部屋に入り、内側から戸をたて、無情にも切腹した。
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7.母お市の方の死と、北の庄城からの救出 |
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本能寺の変で当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と織田信忠の子(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しく対立し、これが織田勢力を二分する激しい戦いとなった。
秀吉はこの戦いに勝利し、柴田勝家と妻お市の方は北の庄城で共に自害した。
その際、勝家は茶々・初・江の娘三人をひとつの輿に乗せ、自ら書状を書いて豊臣秀吉の元に送り届け、その後娘たちは秀吉の庇護のもとで暮らすこととなった。
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「柴田勝家三人の女子を秀吉へ送る図」
真書太閤記 / 國民文庫刊行會編輯 ; 4. -- 國民文庫刊行會, 1912.
請求記号:918/10/42 資料ID:20142025 配置場所:1階C11
嘉永五年(1852)~慶応年間(1868)の刊の豊臣秀吉の通俗的な一代記。12編360巻。栗原柳庵編。18世紀中頃から行なわれていた大坂の講談「太閤真顕記」をまとめたもの。
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8.二度目の結婚:羽柴(豊臣)秀勝 |
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佐治一成との結婚が婚約だけだったのか、実際に結婚したのか諸説あるが、秀吉の庇護のもとで暮らしていた江は、天正十四年ごろ(1586)秀吉の甥で後に養子となる羽柴秀勝に正妻として迎えられる。江14歳、秀勝18歳であった。(文禄元年(1592)説もあり)
娘が一人が産まれたが、秀勝は文禄元年(1592)朝鮮出兵で出陣し、巨済島で病死してしまう。
娘・完子は、江が徳川秀忠と再々婚した際、茶々に養育され、後に公家の九条幸家に嫁いだ。
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秀吉の朝鮮侵略 / 北島万次著. -- 山川出版社, 2002. -- (日本史リブレット ; 34).
資料ID:30713932 請求記号:210.08/Ni/34 配置場所:3階N14
秀吉は「唐入り」と称して、朝鮮半島を経て明国へ侵攻しようと考え、肥前名護屋城を本拠地とし、日本各地の大名がここに集結した。
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9.三度目の結婚:徳川秀忠 |
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文禄四年(1595)、江は秀吉の養女として、徳川家康の嗣子秀忠と結婚することとなる。江二十三歳、秀忠十七歳。共に再婚だった。 |
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徳川実紀 ; 第1篇. 復刻版- 新訂増補. - 國史大系刊行会, 1929. - (國史大系 / 黒板勝美編 ; 第38巻)
請求記号:210.08/59/40 資料ID:21427039 配置場所:移動書架B2
江戸幕府が編修させた江戸後期の史書。516冊。徳川家康から第10代家治までの、歴代将軍ごとに諡名を冠した題をつけて区分した編年史。なお、第11代家斉以降は「続徳川実紀」に記述されている。 |
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柳営婦女伝叢』日本人物情報大系 / 芳賀登 [ほか] 編集 ; 叢伝編 1. -- [復刻]. -- 皓星社, 1999.
資料ID:30749504請求記号:281.08/Ni/1配置場所:3階N20
柳営とは幕府あるいは将軍家の意味。本書は徳川氏代々の夫人の列伝で、家康の祖父清康の内室華陽院より九代将軍家重の夫人証明院までの39人とそれぞれの家系を説明する。 |
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『以貴小伝』 纂録類. -- 第3. -- 復刻版. -- 臨川書店, 1983.11-1984.2. -- (改定史籍集覧 / 近藤瓶城編 ; 第11册).
資料ID:21720574請求記号:210.088/Ka/11 配置場所:1階A10
全1巻。18世紀末期から19世紀初期に成立した、初代徳川家康から10代家治までの徳川歴代将軍の生母、御台所、側室、愛妾の伝記。
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「台徳院殿(たいとくいんでん=第2代秀忠)御実紀 巻一」
文禄四年九月十七日、太閤のはからひにて、故浅井備前守長政季女をかしづき、公にまいらせ、北方と定められ御婚礼行わる。(贈従一位崇源院殿)この姉君二人あり。一人は太閤の思ひ者となりて、世には淀殿といふ。その次は京極宰相高次の妻となりて、後に常高院といふ。その末はこの北方なり。後に御台所と申し奉りしはこの御方なり。(大御台所を太閤養女として、公を御聟に定められしともいふ)
慶長ニ年四月十一日伏見の城にて、北方の御腹にはじめて姫君(千姫)を設け給ふ。
文禄4年(1595)9月17日、太閤豊臣秀吉のはからいで大切に育てられていた故浅井長政のいちばん末の娘と、秀忠公の御婚礼が行われた。(死後に贈られた位階と諱名は従一位崇源院殿)
この人には姉君が二人あり、一人は太閤秀吉の愛人となって、世間では淀殿と呼ばれた。(茶々は淀城にいたので淀殿と呼ばれている)。
その次は宰相京極高次の妻となり、(高次死)後に常高院と号した。
そして一番末娘が今回の結婚相手であり、後に大御台所と呼ばれたのはこの方である。(大御台所が太閤秀吉の養女となり、秀忠公がお婿になったともいう)
慶長ニ年(1597)4月11日伏見城(または伏見の秀忠屋敷)で、江がはじめての姫君、千姫をご出産された。 |
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10.江の長女千姫と茶々の息子秀頼の婚約 |
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慶長三年(1598)、床に臥せった秀吉は、茶々との間に生まれた六歳の息子秀頼の後見人に徳川家康を指名し、家康の孫である二歳の千姫を秀頼と婚約させることを遺言に残した。
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淺野家文書 / 東京大學史料編纂所編纂. --覆刻版. --東京大學出版會 , 1968. --(大日本古文書 . 家わけ; 第2)
資料ID:20344306 請求記号:210.088/39 配置場所:研究室
「豊臣秀吉遺言覚書」
(太閤様覚書)
太閤様が御煩いなされ候うちに、仰せおきなされ候覚え。
一、家康が久々律儀なる儀を御覧しつかれ、近年御懇ろになされ候。それゆえ、秀頼様を孫婿になされ候の間、秀頼様をお取り立て給い候えと御意なされ候。
利家殿年寄衆五人居り申し所にて、たびたび仰せいでられ候事。
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11.四女を姉の養女へ |
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千姫のあと、子々(女)、勝(女)、長丸(男)と生まれたが、江の実子かどうかは不明。長丸は生まれてまもなく死亡した。
慶長八年(1603)、四女を出産。次も女の子だったら、子どものいない次姉初がもらいうける約束を懐妊中からしていたため、四女初を姉初に託す。
初の夫京極高次には忠高という息子がおり、将来は二人を結婚させるということで迎えられた。
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12.竹千代(後の家光)と弟・国松(後の忠長)の誕生 |
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慶長九年(1604)、後に三代将軍家光となる竹千代が誕生。乳母に春日局が付けられる。
慶長十一年(1606)弟・国松(後の忠長)が誕生する。江と秀忠は国松を溺愛し竹千代を疎んじたため、江と春日局の間に確執が生まれたという逸話がある。 |
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江戸城大奥の生活 / 高柳金芳著. -- 雄山閣出版, 1969. -- (生活史叢書 ; 7).
資料ID:21453380 請求記号:210.5/169 配置場所:移動書架B2
江戸城 : 四海をしろしめす天下の府城. -- 学習研究社, 1995. -- (歴史群像名城シリーズ ; 7).
資料ID:30284258請求記号:521.8/49/7配置場所:3階M10
武家の邸宅では、対外的な応接をする「表」と、家族が生活する「奥」とが区別されていた。江戸城でも表と奥があり、とくに「大奥」と称した。
これを「大奥法度」として制度化したのがニ代将軍秀忠であり、春日局によって整備された。
大奥が置かれたのは本丸、二丸、西丸で、本丸は将軍夫妻、二丸は将軍生母やかつての将軍に仕えていた側室、西丸は世嗣夫妻や大御所夫妻が住まいとした。
将軍は中奥で起居し、中奥と大奥の間は厳重な塀で仕切られ、大奥側へは将軍以外の男子は入ることができなかった。 |
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13.敵方となった姉と実娘、和議を試みる次姉 |
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慶長十九年(1614)、かねてから豊臣氏を滅ぼす機会をねらっていた徳川家康は、豊臣秀頼によって寄進された京都・方広寺の大鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」の文字に因縁をつけ、和解の条件として秀頼か淀殿(茶々)の江戸移住、または秀頼の大坂からの国替を受け入れるよう迫ったが、秀頼はこれを拒否したため、家康は豊臣氏追放の命令を下した。
これが徳川家康・秀忠父子を総大将とする徳川方と、豊臣秀吉の遺児秀頼を主と仰ぐ大坂方との間で大合戦となる。
このとき、姉の淀殿、秀頼母子を救おうと、家康の命で大坂城へ入り和議の交渉にあたったのは次姉の常高院(初)だった。一度は和議が成立したものの、夏の陣が開戦。再び和議を試みるが、淀殿、秀頼は条件を拒み、大坂城は落城。
落城の際に常高院は城を退去し、淀殿と秀頼は坂内で自害した。 |
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大坂冬の陣図 ; 大坂夏の陣図 / 桑田忠親 [ほか] 執筆. -- 普及版. -- 中央公論社, 1988. -- (戦国合戦絵屏風集 成
/ 桑田忠親[ほか]編 ; 第4巻).
請求記号:721/2/4 資料ID:21137198 配置場所:3階M2
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14.江の着物 |
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京都の呉服屋雁金屋には、江が注文した注文帳が残っている。
慶長九年(1604)の注文では、
呉服十反
出来丈四尺で、染物(地無)五つ、肩裾三つ、四つかわり二つ 模様はいかにも小柄に。
辻が染は出来丈三尺九寸五分、色は地紅五つ、肩裾三つ、四つかわり二つを、いかにも小柄に仕立てること、とあります。
肩裾は、肩と裾に模様を設定し腰の部分を空白としたもの
四つかわりは、四つの別の布地で作るもの
辻が染は、絵画風に麻に藍染した夏の正装。
江は肩裾や四つかわりといった当時流行の小袖を注文しており、ほとんどは下地を紅色に染め、模様は小柄なものを好んだようである。
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都ひゐな形 : 御呉服 : 今様染 / 加藤良信筆. -- [出版者不明], [1---].
資料ID:21827723請求記号:753/Ka配置場所:1階W4
雛形本は、江戸時代の着物小袖の見本帳で、現在のファッション雑誌のようなもの。 |
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秀吉展 : 黄金と侘び / 大阪市立博物館 [ほか] 編集
今井修平先生ご所蔵 |
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15.江の最期 |
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寛永3年(1626)九月十五日、江戸城西の丸で没し、麻生の荼毘所にて火葬に附された。
享年54。秀忠より先に逝く。法名は「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」。
夫と息子が徳川将軍となり、ファーストレディとなった江だが、実家と婚家の争いで肉親を亡くしたり、幼い娘たちの政略結婚に心を痛めたり、長男と次男をとりまく確執があったりと、波瀾万丈の人生が幕を閉じた。 |
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骨は語る徳川将軍・大名家の人びと / 鈴木尚著. -- 東京大学出版会, 1985.
資料ID:30018051 請求記号:469.45/1 配置場所:3階M13
お江(崇源院)は寛永三年九月十五日、享年54歳で江戸城に没し、麻生の荼毘所にて火葬に附された。
遺骨は木棺に納められ、増上寺の将軍家の墓所の巨大な宝篋印塔の石室内に納められた。
骨は火気を受けて変色、変形していたものの、次のことが判った。
歯冠の咬耗がほとんどないことから、精選されたやわらかい食事をとっていた。
上腕骨や大腿骨の長さ・周囲から、そのころの平均値から言ってもかなり華奢で小柄な体型をしていた。
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16.江の手紙 |
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次姉の常高院(初)にあてた手紙が残っている。
内容は、今日は将軍が北の丸へおなりになるめでたい日ですが、幸い天気もよく、ひとしお嬉しゅうございます。また御祝儀としてお魚を頂きました。という礼状である。
署名は「五」としている。 |
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近世女人の書 / 前田詇子著. -- 淡交社, 1995.
資料ID:21991967 請求記号:728.21/Ma 配置場所:3階M7
女性の手紙に見られる散らし書は、色紙や短冊に歌を書く手法が手紙にも用いられるようになったためと言われている。
書き出しは色紙に歌を書くように大きな字で散らして書き、続きは冒頭に戻って一段小さな字で余白に書く。さらに三度目の戻りを三べん返し、五へん、七へんと返しが続いた例もある。 |
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17.秀吉の遺言状 |
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(大きな文字から先に読んで前に帰ります。)
秀頼の事
なりたち候やうに
此かきつけ
しゆとして たのみ
申し候。なに事も
此ほかには思い
のこす事なく候
かしく
(前に戻って)
返々、秀頼事
たのみ候 五人
の衆たのみ申候
いさい五人の者に申
わたし候 なごり
おしく候 以上
八月五日 秀吉
いへやす(徳川家康)
ちくせん(前田利家)
てるもと(毛利輝元)
かけかつ(上杉景勝)
秀いへ(宇喜多秀家)
まいる
豊臣秀吉展 : 天守閣復興60周年記念特別展 / 大阪城天守閣(大阪市経済局)編
今井修平先生ご所蔵
秀吉の息子を思う気持が痛いほど伝わってくる
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