〇 古代 大伴坂上郎女のプチ旅行
地方の農民が租税を大和朝廷に納入する旅、荷役の旅、中央官吏が地方へ派遣される旅はありましたが、観光のための旅行はほとんどありませんでした。
そんな時代でも大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、奈良から京都の賀茂祭(葵祭)に行き、琵琶湖を臨む山経由で奈良に夕方戻ってくるという小旅行をしています。
西本願寺本萬葉集 ; 巻六 <複製> / 佐佐木信綱, 武田祐吉編. -- 竹柏会, 1933
資料ID: 20938697 請求記号: 911.12||41||6
西本願寺本万葉集
「万葉集」は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集。
『西本願寺本万葉集』は全20巻約4500首を完全に収録した最古の写本。鎌倉後期。
〇 信仰心による旅「西国三十三所巡り」
近畿から岐阜にかけて散在する観音寺院33か所を参詣する「西国三十三所巡り」が平安時代から始まりました。江戸時代になると寺院が確定し、巡礼として定着しました。
西国三十三所順礼縁起 / 藤屋伊兵衛. -- 萬屋善兵衞, 宝暦4年[1754]
資料ID: 2180115 請求記号: 【七-16】
〇 ミニ巡礼コース「写し霊場」
実際に「西国三十三所巡り」をしなくても同じご利益あると信じられ、江戸時代には各地に「写し霊場」と呼ばれるミニ巡礼コースが開設されました。
大坂では「大坂三十三所観音廻り」が作られ、近松門左衛門の『曽根崎心中』の冒頭にも描かれています。
大阪三十三所観音廻り旧二十一ヶ所大師廻り 地図案内一覧 明治35年[1902]
資料ID: 2180106 請求記号: 【七-7】
〇 名所記
諸国の名所を案内した「名所記」は、江戸時代初期に多数刊行されました。
この資料は、京都と江戸で刊行された、須磨から尼崎の大物までの絵入り「名所記」です。江戸時代初期に須磨観光での需要があったということですね。
展示の絵は実際と少し位置関係が違いますが、須磨の重要な名所を押さえています。
一之谷須磨名所記 -- 錢屋四郎兵衛, 元禄7 [1694]
資料ID: 30911901 請求記号: 291.64||Ic
播磨めくりの紀 / 田原相常. -- 柏原屋興左衛門, 塩屋平助, 文化4[1807]
資料ID: 30862913 請求記号: 291.09||Ta
この資料は、大坂から播磨の斑鳩寺までを巡る絵入り「名所記」です。
巻末に附録があり、尼崎は夜間の往来ができないことや、西宮より西は酒がまずいことなど、旅人への耳より情報を提供しています。
〇 道中記
携帯に便利なように小型に作られ、街道添いの宿場名、距離、名所旧跡、料金などの情報が簡潔に載っています。旅の下調べや道中のガイドブックとして、江戸時代の人も便利に使っていたのでしょう。
播磨名所 偸伽山 金毘羅御山内 : 道中宿附. -- 岸沢屋, [出版年不明]
資料ID: 30859791 請求記号: 291.09||Ha
大坂日本橋を起点に、尼崎-神戸-明石-姫路-岡山-下村港(倉敷市)-舟に乗って-丸亀-金毘羅山までのごく簡単な名所と宿屋を案内した懐中ガイドブック。
伊勢 長谷越道中附. 宝暦13年[1763]
資料ID: 2180104 請求記号: 【七-5】
旅の下調べに、また旅の懐中にと、便利に使われた「道中記」は、非常に簡略な内容のものから、全編絵で街道を描いたものまであります。
この資料は、大坂から伊勢まで文字だけで道案内。江戸時代のナビですね。今でもこの案内通りに歩けます。
〇 見物・行楽の旅
一般の旅人は一日平均30~40キロ歩いて、街道沿いの名所に立ち寄り、宿に泊まって名物の食事を楽しみました。目的が信仰による旅であっても、道中の見物や行楽に重点が置かれるようになりました。
播州巡り膝栗毛 / 彦玉著 ; 像藍月寫画. -- 河内屋太助, 美濃屋伊六, 文化4[1807]-文政7[1824]
資料ID: 30882829 請求記号: 913.55||Ba||2
この資料は、『東海道中膝栗毛』の模倣本です。江戸のはらべえと彦助が難波に下り、明石の人丸神社詣でに出かけますが、各所で滑稽なことをしでかします。
宿の主人が大切に育てていた水仙をネギと間違えて夜中にこっそりと刈り取り、猫の器で食べてしまいました。
温泉はもともと「湯治」といって病気を治す所でしたが、江戸時代中期から楽しみを兼ねて温泉に出かける人も増え、温泉案内の本がたくさん出板されるようになりました。
有馬山温泉記 / 貝原益軒著. -- 栁枝軒, 正徳6 [1716].
資料ID: 30881587 請求記号: 291.09||Ka
この資料は江戸時代前期の儒学者貝原益軒が宝永八年(1711)に書いた有馬温泉紀行文。
京都から有馬山に至る行程から始まり、入湯法、付近の名所旧跡案内、土産なども記しています。
〇 各地の名所図会
京都の図会『都名所図会』が安永9年(1780)に刊行されると、各地で「名所図会」が刊行されました。従来の「名所記」に比べ、土地の美しい写生画が豊富で、古歌・歴史・伝説などの読み物が楽しめ、旅行案内というより地誌として享受されました。
播磨名所巡覧圖會 ; 巻之二 / 秦石田彙輯 ; 藍江中直[画]. -- [河内屋太助], 享和3[1803]跋
資料ID: 30866676 請求記号: 291.64||Ha||2
〇 浪花講
江戸時代後期には旅も盛んになり、街道筋には旅籠も増えてくる一方、一人旅の宿泊を断る宿や、飯盛女(売春婦)を置く宿など、安心して泊まれる宿を探すのが難儀でした。
大坂玉造の源助は、文化元年(1804)に誠実な旅宿組合をつくることを思い立ち、主人の松屋甚四郎と江戸の鍋屋甚八に講元になってもらって「浪花組」を結成しました。
全国主要街道の優良旅籠を指定し、その旅籠や休所の名を『浪花組道中記』や『浪花講定宿帳』に掲載しました。加盟宿は目印の看板を掲げ、旅人は鑑札を提示して泊まりました。
「浪花組」は、天保12年(1841)に、名称を「浪花講」と変更ました。
大坂浪花講定宿帳. --松屋甚四郎
資料ID: 2180109 請求記号: 【七-10】
大日本細見道中記 / 冨士谷東遊志. -- 藤屋菊治郎他, 嘉永4年[1851]
資料ID: 2180122 請求記号: 【七-23】
浪花講が人気となったので、各地で同様の講が次々につくられました。
この資料は 浪花講、東組講、仲吉講、関東講が提携して、優良旅籠を掲載。大阪起点の東海道道中図は豪華な色刷りです。南が上。東へページをめくります。
〇 馬の旅 : 「伝馬」制度と「助郷」
出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、宿駅ごとに人馬を交替しました。これを「伝馬制度」といいます。宿駅には幕府が定めた数の人足と馬が常備され、対応できなくなると、周辺の村落に人馬の補充を課しました。これを「助郷」といいます。
芥川宿助郷証文人足覚外.-- [攝津国島上郡東五百住村 庄屋髙谷太右衛門文書]. -- 享保8 [1723]-[明治年間].
資料ID: 30490338 請求記号: 216.3||Ta
この史料は、西国街道沿いの芥川宿(現高槻市)が、近隣の東五百住村に人足の調達を行ったものです。
芥川宿は宿泊はなく休憩のみの宿場で、参勤交代での人馬の利用は無料、一般の旅人は駄賃を払えば使うことができました。
〇 江戸時代は長旅
江戸時代は自由な移動が厳しく制限されていましたが、参詣を理由とした移動についてはかなり寛容でした。そのため旅を計画するときは目的地に加え、足を伸ばし、旅を楽しんでいたようです。
江戸からの旅人は東海道を通って伊勢を参拝した後は、西国三十三か所を巡り、中山道を通って帰るコースが一般的でした。また、伊勢と金毘羅宮参詣をセットにすることもあり、広範囲を網羅した地図が必要でした。
大日本道中細見記 <複製> / 河童庵主人校正. -- 加美の素本舗, [1975]
資料ID: 21260377 請求記号: 291.038||46
|