はじめに
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明治5年に公布された「学制」では、女子に関して小学校の記述はあるものの、中学校以上についてはなんの方針も示されませんでした。女子は男子と同等の中等教育を受けることが実際には不可能でした。
明治16年(1883)になって、東京に東京女子師範学校附属高等女学校が設置され、地方においては、明治24年(1891)に中学校令の改正により、高等女学校が女子の中等教育機関として明文化されましたが、神戸ではもっと後の、明治34年(1901)に兵庫県高等女学校が、明治45年(1912)に神戸市立高等女学校が開校します。
このように国や県が女子の中等教育を充実させることができなかった時期に、これを整備したのはキリスト教の女学校でした。神戸は港から入る多くの外国文化に触れ、開放的な気質がただよっていたので、“ハイカラ”で進歩的になった人々は、他府県に比べて抵抗なくミッション・スクールを受け入れたようです。
また、既成のものに満足せず自分たちの手で学校を作りあげた人々がいました。裕福な人たちは惜しみなく財産を社会に還元し、一方で夫の財産に頼らず自らの力で資金を拠出した人もいました。
困っている日本人の力になろうと地球の裏側からかけつけてくれた修道女のおかげで、何人もの子どもたちが助けられました。
大正時代になると、実用本位の学校の要望も強く、工業学校、商業学校などの実業学校が多くつくられましたが、須磨にある二つの女学校はそれぞれ女性によって開かれたものです。
今回の展示では、教育制度揺籃期においてした尽力した人々と、須磨にある学校をテーマに取り上げ、その業績を追いました。
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1.明治までの一般女子教育
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明治以前
江戸時代、地方における教育機関は、藩が藩士の子弟教育のために設立・経営した藩校、藩の許可を得て藩や有志が経営した郷校、個人経営の寺子屋がありました。
兵庫県下では、三田藩、姫路藩、淡路島(阿波藩)が郷校の多い地域でしたが、神戸市には藩校・郷校はありませんでした。
寺子屋は、神戸市には27ヶ所あり、そのうち須磨区では、板宿村に武井善左衛門氏、車村に盛田太陽氏、妙法寺村に竹林覺岸氏、多井畑村に鷲尾武治氏、東須磨村に森本良海氏、西須磨村に丹治了教氏の六ヶ所の寺子屋が開かれ、明治2年の時点で、男219人・女68人通っていました。
そのほか東須磨村では西月、可大という俳人や松田彦右衛門氏、また白川村でも漢方医の川勝義信氏が、漢籍と習字を教授していました。
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(展示物)
日本教育史資料 / 文部省編 ; 8 (附図). -- 第2刷. -- 臨川書店, 1980
請求記号:372.1/64/8資料ID:20418960配置場所:1階B7
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寺子屋は男女とも数え年七、八歳から寺入りするのが普通でしたが、中には縁起を担いで六歳の6月6日に入学する者もありました。
在学年数は一定せず、男子はだいたい十五歳まで、女子は十三歳までとし、進級落第はなく、個人の到達により順次高尚な学科を授けていく教授法でした。女子は十四歳から裁縫の稽古をしたため、男子より就学年限が短くなっています。
授業は毎日午前8時から午後3時まで、夏期は土用の入りか八朔の間は朝習いといって、午前中だけ授業をしました。
休日は毎月一日と十五日、お盆の七月五日から十六日、冬季は十二月十九日から正月の十六日まで、そのほかに節句と氏神の祭日など村の行事に合わせて休みました。
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学制
明治4年(1871)に文部省が設置され、翌年明治5年(1872)「学制」が発布されました。小学校は国民すべてが就学すべきものとし、これにより小学校教育が義務制となったのです。
「学制」では全国を8大学区に分け、各大学区を32中学区に、各中学区を210の小学区に分けて、そこに小学校を各1置くと定めました。須磨村は地勢が複雑で通学上にも非常に困難であったため、これを5区に分けてそれぞれ近いところに通学するようにさせました。
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(展示物)
学制 / 文部省[編]. -- 雄松堂書店,1981. --(明治初期教育稀覯書集成/ 唐沢富太郎編集 ; 第2輯 2)
請求記号:370.8/8/2-2 資料ID:20863531配置場所:1階B5
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小学校の開業
「学制」の発布により寺子屋を閉鎖し、小学校を設けることになりましたが、当初はそれまでの寺子屋や寺院、民家を校舎にあて、教師は寺子屋の講師がなることもありました。
須磨区では明治6年に、白川村に白川小学、多井畑村に多畑小学、西須磨村に一ノ谷小学、東須磨村に須磨小学、妙法寺村に神撫小学が開学しました。
白川小学校は白川大歳神社隣の民家をあて、村で漢籍を教えていた川勝義信氏が教員になりました。多井畑村では、廃寺となっていた極楽寺(多井畑厄除八幡神社内)を改修し、原肇という人を教員に雇うことになりました。西須磨村では、頼政薬師堂で住職の丹治了教氏が寺子屋から引き続き教えました。
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(展示物)
兵庫県管下第三区多畑小学開業願(写真)
神戸市立多井畑小学校蔵 |
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<翻刻>
大坂東天満小田新太郎に従い、慶応三丁卯年三月より明治三庚午年六月まで都合四年
支那学研究。
大坂大学南校にて明治三庚午年七月より医学
四月まで西洋学研究。
旧浅尾藩大坂出張邸へ明治三庚午年十一月より同五壬申年三月まで権少属勤務。
一 教師給料
一ヵ年 四十八円
一ヶ月 四円
一 学科
小学
一 教則
教科の等級並びに書籍課業等御教則に準ず
一 校則
一 年齢六歳以上の者、必ず入学の事
一 入学日 毎月二日 十七日の事
一 入学の節は 父兄又は親戚より学校世話係へ 左の名前書きをもって入学を承知の旨 申し出るべき事
何町村長 男女二三男女兄弟姉妹
明治六年何月幾日入学 何の誰
何歳何月
一 課業は午前第十時より午後第四時迄の事
一 右課業中 ほかの学業あるいは書籍あい交わり候の儀は あいならず候のこと
一 一六休業の事( 毎月の一と六のつく日は休業です)
一 病気あるいは事故ありて欠席の節も その日午前第十時迄にその旨申し出るべき事
一 授業時間に雑話いたし あるいは立ち回り不行儀の振る舞い一切 いたすまじく候の事
一 やむをえず事故ありて退学いたしたく者は その仔細あい認め 父兄親戚より学校世話係まで申し出ること。情篤と承糺し 慮りなき次第あらば 志願の通りさし許しべき事
右の通り開業したくこの殿願い奉り候なり
兵庫県下平民
明治六年十月十四日
願人
久野木弥三左衛門
鷲尾三郎兵衛
兼廣九兵衛
正木大郎兵衛
明治六年十月二十八日
兵庫県令神田孝平殿
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就学率
「学制」で《必ス邑ニ不學ノ戸ナク家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス》と、呼びかけはしたものの、政府は、学校設立と維持の経費は官費ではなく、原則学区ごとの民費負担としました。小学校の授業料も50銭と定めましたが、これを徴収することは困難で、学区内の各戸への賦課金と寄付金で賄うほかありませんでした。一般村民にとっては、授業料や賦課金が課せられた上に、児童の手伝いや出奉公が期待できず、就学は重い負担となったのです。
村では有識者が「学区取締」に任命され、区内の学校の経営、学事に関する一切の事務を担当しました。学区取締は学区内の人民を勧誘して就学させ、毎年2月、区内の六歳以上の者について就学者数と不就学者数を文部省に報告していました。彼らは、新しい学制を強制する政府と、貧困と封建観念から脱しきれない村民との間で板ばさみとなったに違いありません。
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(展示物)
小学統計表
白川大歳神社蔵
<説明>
「学制」の中では《男女の別なく》を主張していますが、明治8年白川小学校では、男子63%の就学率に対し、女子はわずかに9%で、根強い封建制の考えが残っています。
白川小学校では明治8年(1875)2月の調査では就学率72%でしたが、新年度が始まり5月になると48%に減っています。1877年頃には全国平均でも30%に満たず、就学者の80%が1年以内で退学する有様で、義務教育制度が普及したとはいえませんでした。
そこで、政府は明治12年(1879)に「学制」を廃し、「教育令」を出しました。しかし小学校の設立や経営は町村の自由裁量だったため、結局翌年には全面改正され、中央集権が強められた新しい教育令が出されたのです。
須磨では、西代、板宿、大手、東須磨、西須磨、妙法寺、車、白川、多井畑が協力して、現在の禅昌寺の離座敷を仮用して神撫小学校を設立し、従来の学校は神撫小学校の分校となりました。
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第二区白川小学取調表(明治8年5月17日)
白川大歳神社蔵
学習内容
当時の小学校は、下等小学(半年毎に下級の8級から上級の1級まで4年間)と上等小学(同4年間)の8年制で、授業内容は「小学教則」(明治五年九月八日文部省布達)で定められていました。
現在の国語が読物、習字、書取に分かれており、地理は読物や問答の中で学習しています。
学制発布当時はまだ教科書が整備されていなかったため、1872年9月に制定された「小学規則」では、寺子屋で使われていた往来物、民間で用いられている啓蒙書やアメリカの教科書の直訳したものなどを使うよう提示しました。
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(当時の教科書)
小學讀本便覧 / 古田東朔編 ; 第1巻 - 第8巻. -- 武蔵野書院, 1978.
請求記号:375.8/59/1資料ID:21031229配置場所:3階L14
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文部省掛図総覧 : 単語図・博物図等 / 佐藤秀夫 ; 中村紀久二編. -- 1. -- 東京書籍, 1986.
請求記号:375.9/46/1資料ID:21071669 配置場所:3階L14
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小学問答書 / 三瀬貞幹編輯 ; 内田赫一郎校 ; 日本略史之部. -- 複製. -- 雄松堂書店, 1980. -- (明治初期教育稀覯 書集成
/ 唐沢富太郎編集 ; [第1輯] 7).
請求記号:370.8/8/1-7資料ID:20863357配置場所:1階B5
問答法を用いつつも、暗記的な教授法であったことがうかがえます。 |
連語図解 / 若林徳三郎図解. -- 雄松堂書店, 1980. -- (明治初期教育稀覯書集成 / 唐沢富太郎編集 ; [第1輯] 9).
請求記号:370.8/8/1-9資料ID:20863371配置場所:1階B5
連語図は単語図が単語を図によって示して教えるのに対し、まず単語をいくつかあげ、それを用いた文章を教えます。
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関連資料 |
2.キリスト教解禁後まもなく、来日した外国人宣教師によって作られた学校
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●兵庫県初の女学校「神戸ホーム」 |
アメリカ合衆国から、キリスト教布教のために神戸にやってきた二人の女性宣教師、タルカットとダッドレー。そこで知った女子教育への熱い思いに応え、学校建設へと動き出します。
タルカットとダッドレー
エライザ・タルカット(当時36歳)とジュリア・E・ダッドレー(当時32歳)が米国伝道会より派遣され、神戸に着いたのは、明治6年(1973)の3月でした。日本上陸初の女性宣教師でした。
タルカットの手紙
タルカットは、神戸に到着後、本国へ手紙を送っています。
「この日出づる国からお手紙を差し上げ、また、当地の宣教師の方々の心からの歓迎をお知らせすることができて、私は幸福です。(中略)『町で会う少女たちの多くは大変魅力的で、私は早く彼女たちと話ができるようになりたいと願っています。」
二人が熱い志をもって日本でのキリスト教伝道に立ち向かっていこうとする心意気が伺えます。
しかし、当時の日本は、キリスト教の禁制は解かれたものの、邪宗門の扱いを抜け切れない状況で、神戸でも二人が上陸する一ヶ月前に禁制の高札が消えたところでした。このようにキリスト教に対する反感が強い世の中でしたが、九鬼隆義というキリスト教の理解者と出会うことによって大きな一歩を踏み出すことになったのです。
三田藩主九鬼隆義
九鬼隆義(天保8年(1840)~明治24年(1892))は、三田藩最後の藩主であり、明治維新後は三田知事をしたこともありました。欧化主義者で、明治2年には旧藩士に断髪の号令をかけ、洋服着用を命じました。明治6年に長女が5歳で病死した時などは、キリスト教で埋葬したほどでした。
明治7年(1974)5月、ダッドレーは伝道活動で三田に出向き、九鬼隆義の夫人をはじめ三田の多くの婦人たちと交流を持ちました。ダッドレーが活動を終えて三田から神戸に帰ろうとするとき、三田の婦人たちは、自分たちの子女が神戸の学校で勉強できるよう、強くダッドレーに要望しました。このことが、ダッドレーとタルカットに寄宿学校を設立しようと計画させたといわれています。一説には、神戸に寄宿学校を開設することを要請したのは九鬼隆義自身であったともいわれています。
来日当初から、タルカットとダッドレーは伝道活動の傍ら、神戸の宇治野村で始められた英語学校の校務を手助けしていましたが、明治6年の10月に独立して神戸市花隈村で女子の私塾を開きました。翌年(明治7年)4月には北長狭に教室を移しました。
授業の内容は、唱歌、日本語でのお祈り、英語のリーディングと会話、日本語での旧約聖書の物語、賛美歌、新約聖書の話、裁縫などです。
「神戸ホーム」開設
明治8年(1975)10月、山本通5丁目に新しい校舎が完成しました。当初は特定の名前はつけられていませんでしたが、先生をお父さんお母さんになぞらえた「家族のような」間柄にふさわしいという意味で「神戸ホーム」と呼ばれていたと伝えられています。
総工費約6千円(うち米国伝道会からは5200ドルの寄付が届き、800円を九鬼隆義が投じました。これは日本人として最大の経済的援助でした)、校長はタルカットです。生徒は原則寄宿舎生活で、その学校生活を全面的に指導し、校外の異郷の世界との交渉をできるだけ制限して、キリスト教の信仰に専念させました。
当時の授業の内容
明治9年8月19日付『七一雑報』に掲載された学院現存最古の広告文より、当時の授業内容を知ることができます。
「午前中は国史漢籍、午後は英語、西洋諸科の学は生徒の力にしたがって授くべし。毎日聖書を教え、生徒の品行を堅く守らすべし。入塾生とは世話人に導かれざればみだりに学校の地面を出ずるを許さず」
その後、「神戸ホーム」は神戸英和女学校、次いで神戸女学院と改称され、現在の神戸女学院大学へと繋がっていきます。
関連資料
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●理想の幼児教育を求めて 「頌栄幼稚園」 |
明治の半ば、小学校の就学率が50%に満たない中(文部科学省『学制百年史』)、東京の官立幼稚園から10年遅れて、神戸にも幼児教育に注目するグループが現れました。
・設立までの動き
アメリカ合衆国から来日した宣教師J.D.デビスが、明治6年(1872)8月、三田に赴いたことから、デビス一家と旧三田藩主九鬼隆義一家の交流が始まり、九鬼氏や側近たちはキリスト教や西洋の風習について学ぶようになりました。
その頃、伝道のため神戸にいたD.C.グリーンのもとでは、聖書を通じて英語を習得する青年たちがおりました。デビスが三田の帰路、同じ熱意を持つ三田の子女を同行したところ、ここに本格的な英語学校を設立する計画が持ち上がり、神戸の宇治野村に英語学校が設立されました。それらが3年後の神戸ホーム創設につながるのです
明治7年(1873)キリスト教禁止の高札撤去後、宣教師と青年たちは英語学校の隣で日曜学校を開始し、翌年神戸教会が設立されました。婦人信徒たちは「神戸婦人会」を作り、婦人の自立と社会的覚醒を促す活動を行っていました。
神戸教会信徒の小磯夫妻は、早くから幼児教育に注目し、財界人北村氏の協力を得て幼稚園の設立を企てていました。この動きを見た神戸婦人会も幼児教育の緊急性を知り、財界の援助に頼らない独立・自給の幼稚園設立をめざしました。(小磯氏の「私立神戸幼稚園」は明治21年(1888)に完成します)
神戸婦人会の会員は明治19年(1386)5月12日、会員宅に集まり、幼稚園設立を決意し合うと、資金集めのために手芸品を作り販売することを決めました。
手芸品の材料費として各自3銭ずつ出して、京都で購入した人形に手縫いの着物を着せ、会員が寄付した古鏡などと一緒に、宣教師アッキンソン夫妻の世話でアメリカで販売してもらうことになりました。この人形はミカド人形と呼ばれて評判を呼び、これで得た資金と、幼稚園設立を助けるための婦人有志の募金で千円の資金ができました。
旧三田藩家老白州退蔵も、キリスト教女子教育に深い理解を示し、幼稚園設立のために所有地を提供しました。
デビスは、休暇で帰米中、日本伝道について講演し、「日本の神戸で婦人たちが幼稚園を作ろうとしてる。専門の教師を必要としているが、誰か献身するものはいないか」ということを伝えました。
この聴衆の中に当時シカゴで幼稚園園長をしていたA.L.ハウがおり、これこそが自分に与えられた使命だと、来日を買って出ました。
婦人会は当初、幼稚園の設立しか考えていませんでしたが、ハウは日本の保育界の将来のためには保母の養成が急務であると考え、伝習所の開設も同時に目指しました。当時の保母養成機関は、小学校教員養成の副次的に保母にもなれる東京女子師範学校のみで、一般的には各地の模範幼稚園に見習生を置いて保母を養成していました。
しかしハウは、あらゆる教育の中で最も重要で難しいのが幼児教育で、それに携わる保母は、短期の講習で養われるものではなく、普通高等女学校程度の上に、少なくとも2年の教育・実習を通してのみ養成されるものと確信していました。
ハウは来日後アメリカの両親に宛てて多くの手紙を送っていますが、その中には設立までの様子や苦労などが書かれています。
こうして、明治22年(1889)年10月22日神戸の中山手通に頌栄保母伝習所が誕生し、11月4日頌栄幼稚園が開園しました。
・授業について
当時の日本の幼稚園はフレーベル教育を行っていたものの、形式的にフレーベルの考案した恩物を使った保育がなされているだけでした。しかしハウは恩物を保育に取り入れると共に、キリスト教精神とフレーベルの教育精神・教育哲学も伝えようとしました。
創立当初、伝習所生への授業は、通訳を介して行われ、学生はこれを筆記して要約し提出する形をとりました。教科書もなかったため、伝習所で用いる教科書や参考書はアメリカから100冊ほど購入し、特に重要なものは自ら翻訳し、講述、出版しました。学生時代音楽を専攻していたハウは、まず日常保育に必要な唱歌集から翻訳し『幼稚園唱歌』を出版しました。
また、『人間の教育』はフレーベルの教育精神、教育哲学を示しているということで、明治31年(1898)に初めてハウが日本語に訳し、『母の遊戯及育児歌』と共に特に必読書としました。
関連資料
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●神戸で唯一の孤児院「女子教育院」 |
まだ国家的社会保障が確立していない幕末から明治にかけて、さまざまな理由で生活できない人たちを保護救済する外国人修道女たちがいました。
慶応3年(1868)に開校した神戸港には、西欧的な町並み外国人居留地が作られ、神戸初の二つのキリスト教会が建てられました。カトリックの神戸天主堂とプロテスタントのユニオン・チャーチです。
明治5年(1872)に長崎から神戸天主堂に着任したエメー・ヴィヨン神父は、布教の傍ら貧民の保護救済にあたっていました。明治8年(1875)の凶作と不況の際には、町には孤児・捨て子、貧民の子どもがあふれかえり、司祭館はまるで孤児院のようになっていました。
そこでヴィヨンは明治10年(1877)7月、神戸天主堂のそばの裏町一番地に「女子教育院」(幼きイエズス修道会孤児院)を設立しました。当時神戸で孤児や棄児を受け入れるのは、この施設だけでした。石井十次の岡山孤児院(明治20年設立)が日本初とよく言われますが、これは大きな誤りで、カトリック教会はもともと貧しい人々に対する救済と奉仕活動を行っており、すでに日本各地で貧民救済活動を行っていました。
ベルナール・プティジャン司教(日本代牧区司教)は救済事業を修道会に委ねるため、本国のフランスの「幼きイエズス修道会」(Saint-Enfant Jesus de Chaufailles) に、修道女の来日を要請します。幼きイエズス会は慈善と教育をその使命として1859年にフランスの都市シュファイユに創立されたカトリック教会の女子修道会で、すでにヨーロッパにおいてその実績を示していました。
明治10年(1877)7月9日、4人の修道女、シスター・マリー・ジュスティヌ(36歳)、シスター・セント・エリア(28歳)、シスター・フランソワ・ド・ボルジア(26歳)、シスター・マリー・ベルナルディヌ(24歳)が神戸に到着。
神戸に上陸した修道女たちは、乳児を保管するベッドはおろか着替えをさせる衣服すらない状態であるにもかかわらず、上陸後の7月12日にはもう乳児を預けられ、旅行かばんに柔らかい下着を敷いてその世話を始めました。その上、彼女たちには住むに適当な家もなく、民家を借りて一時をしのぐ有様でした。
子どもたちの数はすぐに増え、半年足らずの間に62名となり、さらに養育しなければならない子どもの数が90名となりました。
そこで、同院は10月に、神戸居留地裏町41番地の洋館を1万5000フランで購入し、移転しました。
ここでの女子教育院を語る上で外すことのできない人物が、シスター・アントニンです。
シスター・アントニン(ヒロメナ・バレンチン・アントニン Philomena Valentine Antonine)
1861年、フランスのロアール県セルニ市の敬虔なカトリック信者の家に生まれました。16歳で幼きイエズス修道会の修道女となり、リヨン府師範学校を卒業。1886年8月25日に日本に渡りました。
神戸に上陸し約2週間の滞在後、岡山に移住。そこで岡山玖瑰女学校(現在のノートルダム清心女子大学)の教師を4年間勤めた後、再び神戸に生活の場を移し、明治23年(1890)9月「女子教育院」の院長となりました。
院長に就任したシスター・アントニンは、積極的に働き、施設の充実をはかりました。大正3年5月にはそれまで個人的施設であった院を、法人組織の認可をとり、神戸市下山手通に移転しました。
収容児は「聖家族幼稚園」、市立小学校、優秀な生徒は高等女学校に進みました。シスター・アントニン自身は施設で編み物、和洋裁を教授し、子どもたちの教養と実技を指導しました。
プロテスタント教会が英語教育を布教の手段にして、多くの高等教育機関を設立したのに対し、カトリック教会は下層庶民との直接接触に重点を置いて、孤児院、養老院、救貧院等の慈善活動が布教の中心となり、中等以上の学校の設立に関心を持つのは、ずっと後のことになります。
聖家族幼稚園
明治36年(1903)9月1日、神戸市下山手に建設され、「女子教育院」に収容された学齢前の幼児を通園させました。
その後、シスター・アントニンは真光女学校の運営にも携わるようになり、1924年から1935年にかけて同校を神戸女子和洋技芸学校、聖家族女学院、聖家族高等女学校と改め、聖家族女学院の院長、聖家族高等女学校の理事長を務めました。来日から60数年、一度も祖国フランスに帰ることなく、教育と社会事業に力を注ぎました。その間の業績は、各方面で功労者として表彰されるものでした。また、シスター・アントニンに教育された孤児のうちの11人は修道女の道を選び、各地で献身の生活を続けたそうです。昭和26年(1951)7月28日死去。仁川の幼きイエズス修道会本部の共同墓地に葬られています。
関連資料 |
3.須磨に作られた学校
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●明治の財界人がつくった学校 須磨浦小学校 |
・別荘地として発展した須磨
須磨は風光明媚で温暖な土地柄だったため、明治21年(1888)に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が開通すると、華族や財界人たちが別荘地として注目し、こぞって異人館風の別荘や邸宅を次々と建てました。
明治42年には須磨地区の総戸数1,872戸のうち、350戸余が別荘となりましたが、中でもひときわ目を引くのは、現在の須磨海浜公園にある大阪住友家の別邸でした。広い松林の中に構えられた、コロニアル様式を取り入れた洋館では、国内外の賓客を招いたパーティーがしばしば開かれたそうです。
また、子女の教育には英国から婦人家庭教師を呼び、英国上流風の生活様式が取り入れられました。
(邸宅は昭和20年3月の空襲により消失後、跡地が神戸市に寄贈され、現在は門柱と石垣の一部のみが残っています)
・明治期に定着した初等教育
神戸が市となった明治22年(1889)、まだ小学校の就学率は47%でしかありませんでした。そのため国は打開策として、明治33年(1900)に小学校令を改正し、授業料と進級試験を撤廃します。
無料となると、子どもたちはこぞって学校にいきたがり、明治の後期の就学率は98%に倍増しました。 当時はまだ小学校の数も少なく財産・人出とも乏しかったため、今度は地方の行政側が頭を痛めることとなりました。
・兵庫県最古の私立小学校
そのため明治35年(1902)、須磨に邸宅を構えていた関西の政財界の重鎮7人は、その子女の教育のために、施設に特化した小学校を造ろうと考えました。
主唱者は住友家の初代総理事・廣瀬宰平。そこに田中太七郎を代表とする6人、河上謹一、川崎芳太郎、鳴瀧幸恭、芝川又右衛門、廣瀬満正が設立準備に加わります。大阪株式取引所理事、川崎造船所副社長(後に社長)、初代神戸市長、事業家など、そうそうたる顔ぶれでした。
校地選定は須磨浦療病院長・鶴崎平三郎に委ねられます。鶴崎は、須磨に日本初(世界でも10番目くらいと言われている)の結核療養所を作り、この地の気候風土をよく知る人物でした。そして校地は西須磨字稲荷下4・5・6番合併地に決定します。付近には住宅2戸があるだけの静かな畑地で、恵まれた教育環境でした。
設立のための寄付金は1口60円とされ、1口以上を5ヶ年に納入という方式で募られました。(当時、教員の月給が15~22円)その結果、14人の参加で49口、総額2,855円が集まります。
また、授業料は1人につき1ヶ月50銭と定められました。そして明治35年(1902)6月6日、設立認可を受け、校舎建築に着手します。
<8月30日竣工、31日落成式挙行・・・建築校舎80坪、工費3,060円>
この時、600円余を運道具や教授器械、標本などに投じ、児童が自由に使えるようにしました。また、第2回運動会の前に運動場を63坪拡張、更に施設を加え、健康な体づくりに重きが置かれました。
「知・徳・体」の順に教育が重視された時代に、体育を最重要視する「体・徳・知」の方針は先進的でした。また、設備の上でも「別格」な学校がここに出来上がりました。
10月15日、兵庫県初の私立小学校・須磨浦尋常小学校の開校式が挙行され、全校児童(1~4学年)16名が入学します。
(小学校の修業年限が6か年となるのは、明治40年のことです)
当時、全国的にも私立小学校は極めて稀で、特に関西地方では珍しいものでした。須磨に別邸を構えた別荘族の子弟が多く通い、また山と海に囲まれた良好な環境から、「別荘学校」とも呼ばれていました。当時は、人力車で通学する生徒もいたそうです。
以後、この須磨浦学園は移住してきた有産階級の人々の援助などもあり、今日まで発展しています。 |
関連資料 |
●鶴崎規矩子の太子日曜学校 須磨ノ浦女子高等学校 |
当時の須磨の様子
山陽電鉄の開通した明治30年代、住環境の良い須磨は保養地に適しているということもあり、神戸や大阪の近郊住宅として発展をみることになりました。しかし、そのほとんどが関西の富商・豪商と呼ばれる人々の邸宅や別荘でした。元々は閑静な農村や漁村の町であったため、地元の人々と別荘生活をする人々との間には自然と軋轢が生じました。
当時、須磨浦通りには漁師たちが多く住み、彼らの子どもたちは漁を手伝って網を引いたり、竿を引き上げたりと一家の手助けとなって働いていました。一方、その横では別荘に住んでいる華やかな女性の一団を乗せたクルーザー型モーターボートが海に突っ込んでいく風景が見られたそうです。
「太子日曜学校」の設立へ
東西須磨村の校区には、村立の須磨尋常高等小学校と東須磨尋常小学校の二校が存在していました。しかし、明治35年(1902)10月、郊外居住者が発起し、私立須磨浦尋常小学校を開校させました。この校舎は須磨尋常高等小学校須磨寺南校舎の南方わずか約100mのところに建てられました。当時は、小学校の運営に父兄のみならず地元有志からの寄付が重要でしたが、この学校は移住してきた有産階級の人々の財政的援助もあり発展していきます。地元の人々は、「別荘学校」や「ぼんぼん学校」と呼称し、羨望と嫉妬でみていたと言われています。
このような状況下、「西須磨地区の公私二つの小学校の児童たちが、真に仲よくせねば」と心を痛めていた当時の須磨浦病院長夫人・鶴崎規矩子氏は、聖徳太子1300年祭にちなみ、太子の御教えは和の精神が中心であり、和ぎの心を心とする人らしい人に育ってほしいと願い、日曜学校を設立することを思い立ちました。
そしてついに大正10年(1921)、学園の母体となる「太子日曜学校」を須磨寺に程近い須磨区西須磨千守川畔の太子堂内に設立したのです。
全国唯一の独立校舎「太子館」の完成
「太子日曜学校」は鶴崎規矩子を発起人の中心とし、村野すみ子(村野高校創立者夫人)、奥野しか、福原静子など須磨区在住の有産階級の夫人を中心に創設されたもので、幼少年の教化を目的とした学校でしたが、設立からしばらくして施設狭隘となったことと、協力の輪も広がったことから、現在の睦学園本部所在地に耕作地1980㎡余を借入れ、新校舎を建てることとなりました。
そして大正12年(1922)、延べ面積346㎡、須磨区初の鉄筋コンクリートによる瀟洒な二階建の校舎を持つ日曜学校が完成しました。学校は仏教的色彩を帯びてはいるものの、いずれの宗派にも所属しない日曜学校ということから「須磨太子館」と命名されました。
この校舎建設には31,000余円が投ぜられました。資金調達には有志の浄財もさることながら、鶴崎規矩子自身が指輪など装身具類一切を投じ、須磨染を多量に生産して、これを須磨在住の呉服店に販売依頼するなどして資金を捻出しました。
また、心温まる話としては、須磨尋常高等小学校、私立須磨浦尋常小学校の両校の児童たちが一銭ニ銭の小遣いを節約して会館建設に協力したと伝わっています。
授業内容
授業課目には「訓話、お噺、音楽、遊戯」を置き、徳育・美育・体育の三方面から児童の個性を引き出すことに主眼を置いた内容になっていました。また、児童のための図書を選書収集した児童文庫の開放も行われていました。
「太子日曜学校」から「睦学園」へ
こうして完成にいたった「太子館」には、日曜日ごとに300名を超える日校生が集まりました。この太子館を平日にも活用しようと、社会事業の一つとして女性が少しでも経済的に自立できるように、主として和裁の裁縫塾をはじめます。それは太子館附属高等裁縫部と命名され、30名程の生徒でスタートを切りました。この高等裁縫部は、睦学園の基礎となっていくのです。
関連資料 |
●西田のぶの須磨裁縫女学校 須磨学園中学校・高等学校 |
学校創立の経緯
西田のぶは6年間、宮崎県立延岡女学校や愛知・奈良の女学校で教員生活を経た後、西田音吉氏と結婚しました。しかし、大正11年(1922)2月、音吉氏が急死。4人の子どもを養育しながら今後の生活を模索する中で、「女性はいかなるときでも独力で生きてゆける職業技能を身につけ堅忍不抜の精神と実践力を保持することが大切」と考え、教職の経験を生かし同年11月9日神戸市須磨区大手子守前に須磨裁縫女学校を創設します。学校創設の構想から、生徒の教育指導の実践にいたるまで、すべて西田のぶ一人の手によってなされました。
校舎の変遷
須磨区大手子守前から大正13年(1924)3月、学校は権現町1丁目1番地(諏訪神社東隣)に移転。建設当時は教室が6部屋、職員室が1部屋の木造2階建の校舎でした。
学生の増加に伴い、昭和5年(1930)、教室3部屋と職員室を増築し、定員を120名に増加しました。
昭和13年(1938)、校名を須磨女学校と改称し、校舎も須磨区西代字中ノ庄池ノ下(現在の長田区平和台町)に新築し、定員が500人になりました。
創立者西田のぶ
西田のぶは明治13年(1880)9月15日、京都府中郡五箇村に生まれ、東京裁縫女学校(東京家政大学)を卒業。卒業後6年間女学校の教諭を勤め、大正2年に西田音吉氏と結婚しました。
大正9年(1920)から神戸に移りますが、大正11年(1922)2月、のぶが43歳のとき音吉氏が病死。同年11月に須磨裁縫女学校を創設し、初代校長に就任しました。
昭和13年(1938)7月の阪神大水害の際には、妙法寺川に面する権現町校舎が浸水したり、戦争の激化で校舎が軍需工場に転換され、生徒5名が勤労奉仕中に死亡するなど困難にも直面しましたが、常に学校の発展に努め、昭和23年(1948)4月22日永眠しました。
実践力の育成を理想とした教育
当時の授業は、女性が家庭に入ればすぐ役立つようにと、徹底した裁縫実技の指導がなされました。第1回の入学者は十数名で、卒業生はわずか3名でした。その後入学生が増えるにつれ、校舎を移転していきます。
昭和8年須磨裁縫女学校を卒業した上田久子(旧姓山藤)さんは、当時の思い出をつぎのように語っています。
「当時西田のぶ校長先生の指導方針は、女子は家庭を持っても直ぐ役に立つようにと実地指導を重視され、裁縫は言うに及ばず、日本刺繍・染色のしぼり・料理に至るまで実にきめ細かく指導されました。お陰で私がお嫁に参ります時には、羽織の紐・襟・草履・ふくさまで自分で刺繍したものを持ってまいりました。未だに大切に保存しています。また精神的な面も重視されて、校長先生ご自身の体験から、婦徳の涵養と不幸に直面した時でも自主独立の精神を堅持できるようにと、実に心のこもったご指導をいただいたことは、私の生涯を通じての心の支えとなっております。」(須磨学園創立60周年記念誌P.3)
良妻賢母を理想とする当時の情勢の中、女子は家庭だけでなく、社会で自立し「清く、正しく、たくましく」生きていくための職業技能の習得を目標にしていました。和裁の指導には校長が各教室をまわり、昭和11年(1936)には、和服全般の裁縫の指導書である『和服裁縫書』を自ら著し、刊行しました。
創立当時の神戸市就職児童状況
大正14年(1925)3月に神戸市が行った市内の小学校調査によると、46校の尋常科と高等科を卒業した総数は12,950名でした。尋常科を卒業した児童で上の学校に進んだ者は、約71%の6,959名。会社工場などに就職したものは5%の581名でした。家庭にあって家事手伝いをするものは、22%の2,126人でした。(少年職業問題に就て『神戸又新日報』大正15年1月7日)
卒業後家庭に入る児童が多く、特に当時の女子の就職状況の厳しさがみられます。西田のぶは当時のこのような就職状況のなかで女子が経済的に自立できるように、須磨裁縫女学校を創りました。
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